石けんの日本への到来と普及

 「そういえばさっき風呂場にあったんで思いだしたんだが、相変わらず糠袋使うんですね」

 「へえ、ご自分はシャボンお使いやすけど、女は肌が荒れていかんとお云やして、使わしとおくなはれません」

 「ウグイスの糞はどうしてます」

 「つこうてます。一向に色は白うなれしまへんどすけど」

 これは昭和のはじめ、今から80年ぐらい前ですが、京都市における日常生活の一面です。谷崎潤一郎(1886~1965年)が小説「蓼喰う蟲」(たでくうむし)のなかで当時の京都の暮らしを描写しております。京都弁で分かりにくかったかも知れませんが、会話の一部を紹介しました。

 石けんの代わりに、米糠(こめぬか)やウグイスの糞が、当時も使われ、江戸時代のままであることを知っていただきたかったのです。もちろん、両者は今日もなお、ご愛用者がいて、まったく消えてしまったのではありません。

1.石けんと人類の出会い

 石けんの始まりというと通常は旧約聖書の灰汁の使用が上げられますが、もう少し今日の石けんに近づいてくるのはローマ時代です。この時点では、脂肪とアルカリによる固形物が洗浄に用いられました。これがはっきり文献に出てくるのは2世紀の医師ガレヌスの書物で、医療の洗浄や洗顔に使うことが出てきます。

 中世になると欧州スペインでは石けん業という業態も出てきます。石けんの本場フランスにこの石けんが登場するのは12,3世紀ごろで大分後になります。イギリスには14世紀ごろに伝わりました。

 産業革命以前に欧州各国には石けんが産業として定着し、市民の暮らしに浸透してゆきますが、本格的に石けんの生産が軌道に乗るのは18世紀の産業革命以降です。

2.石けんとシャボン、言葉の混乱

 西欧が、早い段階で香りの高い本格的な石けんを用いていたのですが、わが国の江戸時代では、米ぬかや、鶯のフンなどが、いつまでも主役の座にありました。谷崎潤一郎の小説ではないのですが、米ぬかや、鶯のフンなどは、遠い昔の話ではなさそうです。

 近代的な石けんの始まりはわが国の場合、蘭学の導入とつながっており、近世の西洋医薬品の到来、さらに明治維新の急激な化学工業の西欧化とも重なり興味深いものがあります。

 このころ、日本にやってきたのはシャボンであって、石鹸ではありません。シャボンはいわゆる今日の石鹸であって、石鹸という用語はそもそも、中国伝来の言葉であって、両者はまったく別物です。石鹸という言葉は1606年で、中国の生薬辞典『本草綱目』が輸入されたときに日本へ来ました。

 この書物のなかに「石鹸」あるという字句は出てきます。この『本草綱目』に出てくる石鹸は灰の汁を麦粉で固めたものを対象としました。「石鹸」そのものは、中国では洗浄には使われましたが、この「石鹸」は脂肪やアルカリとは無関係でした。

 近代の石鹸につながるのはサボンあるいはシャボンですが、日本にやってきたのは1613年にイギリス人が持ち込んだという記録が残っております。

 しかし、江戸時代の蘭学者、医師のあいだでは石鹸もシャボンも同様に扱うか、あるいは混同するなど、用語の用い方は混乱していました。たとえば、1708年、蘭学の西川忠英は「サボン」を説明して「灰汁を練り固めたもの、色白く、衣服を洗うに用いる。よく垢を落とす」と言っておりますし、本草学者の貝原益軒も同様に混同して説明していました。この言葉の混乱は明治に入っても続き、石鹸、シャボンが灰の塊から離れて、ともに脂肪酸とアルカリによる石けんへと統一されたのは明治のはじめ、1881年ごろであるといわれています。

 このように、言葉の混乱が長らく続いたのは、一つには石けんが、庶民の暮らしには普及せず、あまり手にすることもなかったからです。しかも、江戸時代の海外文化に詳しい蘭学者も医者も石けんを実際に見たり、使ったりすることはなかったのではないかと、思います。

3.わが国の石けんの生産

 明治のはじめごろまで、庶民には石鹸は縁遠い存在でした。以前にも紹介しましたが、島崎藤村の「夜明け前」には、海外から来た石鹸を村の人が不思議がって眺めるシーンが出てきます。近代の石けんの庶民の前に顔を出すのはまさしく、このころからでしょう。

 石けんの製造を日本で最初に実験的に試みたのは蘭学者であり化学者でもあった宇田川榕庵で1822年ごろといわれております。これがもう少し大々的に行われたのは明治開国のころです。この時点では横浜にはもう外国人の居留が始まりました。

 本格的に日本で化粧石けんの生産が始まるのは、イギリスやドイツ、フランスなどから続々と外人教師が来日してからです。特にドイツから来た化学者ワグネル(1831~1892)の仕事が目をひきます。ワグネルは明治の初めに来日して、20年間、日本の理化学工業の発展に寄与しました。このワグネル東京帝国大学の教師として、陶磁器や硝子、煉瓦といろいろの生産を指導していますが、来日の直接の目的は石けん工業を創始することであったといいます。

 海外の書物、外人教師の影響を受けて日本人として始めて化粧石けんを手がけたのは大阪道修町の春元重助という説がありますが、春元の石鹸製造工場ができたのは1880年ごろでした。しかし、実際に、石鹸工場が稼動したのは横浜の堤石鹸製造場が先で1873年にフランス人の指導を受けて始めたのが最初であるといわれております。

 明治の初めには、洗濯石けん、化粧石けんの輸入も統計に表れており、1870年では

 輸入総額は30,546円で、化粧石けんと洗濯石けんの輸入金額はちょうど半々でした。十年後にはこの輸入金額は倍になっております。

4.日本製化粧石けんの普及

 草創の時代の石けんは、原料はすべて輸入でした。しかも、これらの原料は今日の手作り石けんと基本的には同じで、ウシの油、椰子油、苛性ソーダが用いられました。

 初期の石けんの生産地は東京に集まりました。1895年の製造のデータをみていると、原料に香油として、クロモジ油、橙皮油も加えられております。

 20世紀になると、石けんの新聞広告も目立つようになりました。石けん産業は日本にも確立しました。紳士淑女のみだしなみ、薫香、馥郁とか石けんの香りが、広告にも現れてきます。洗浄だけでなく、香りを漂わせるのも化粧石けんの役割となりました。

 このころになると、大阪も有力な石けんの生産地になります。もともと石けんは大企業の生産するものではなく、中小の企業が中心になって、それぞれ特徴ある石けんを製造しておりました。参考までに、この記事を書くために参考にした花王石鹸社史によれば、花王石鹸は1890年に発売を開始しております。

 江戸時代には石けんは銭湯にはほとんど出ていません。庶民の手に化粧石鹸が現れたのは20世紀になってから、しかも生産が飛躍的に増加するのは大正から昭和のはじめにかけてですので、80年ぐらい前と思えばいいでしょう。化粧石けんの歴史は以外に新しいというのが、今回の結論です。

<参考文献>

谷崎潤一郎:蓼食う虫 岩波文庫、岩波書店(1951)
花王石鹸50年史編纂委員会:花王石鹸50年史(1940)