紫根

 紫(むらさき)と言うと色の中では気高い色の部類に入ります。日本書紀に記載されている聖徳太子の決めたといわれる冠位12階制(お役人の席次を定める順位)では紫が最高の位置にあります。参考までに紫以下の順位は青・赤・黄・白・黒色です。紫色は高貴であるがゆえか、ファッションの世界ではなかなか着こなしが難しい色とされております。

 古来、奈良・平安の昔から衣服を紫色に染めるのに使われたのが紫根(シコン)であり、1976年に飛鳥時代の紫色を調査した結果では、それが紫根による染色であるという事が判明しました。紫根は染色の重要な材料ではありましたが、同時に貴重な医薬品材料でもあり、大事にされてきました。紫根を外用剤に配合した皮膚疾患用の軟膏は漢方薬でもっとも重要とまでいわれております。

 この紫根を配合しているのが天然素材を売り物にしているお肌にやさしい化粧石鹸「延寿石鹸」です。

1.紫根と華岡青洲

 紫根は世界で初めて全身麻酔し、乳がん手術に成功した江戸時代の名医 華岡青洲に結びつきます。華岡青洲の用いた全身麻酔の処方はマンダラゲ(チョウセンアサガオの種子)が主薬で、ここには紫根は配合されていなかったようですが、処方の開発に纏わる青洲の苦闘ぶりは有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」になまなまと描写されています。この小説では、青洲が妻、母を臨床実験に使い、妻が副作用で失明しまうほど、凄惨な開発の経緯が出てきます。その結果、とうとう術策をマスターした青洲は1804年10月、全身麻酔による乳がん切除の手術に成功しました。青洲は春林軒という私塾にて沢山の門人を育て、麻酔・手術の方法も伝授しました。今も出生地の那賀郡那賀町には華岡青洲の記念館があって往時を偲ぶ事ができます。

 華岡青洲(1760-1835年)は京都で学び、のちに郷土の紀伊(和歌山県)那賀で開業しました。古医方、漢、蘭医方も取り入れ、当時としては医学の最先端の知識を入手しておりました。青洲の業績の中で、この乳がん手術に次いで大きい仕事といえば紫根が主薬である「紫雲膏」という皮膚疾患外用剤の開発・普及です。今なお、この名前の商品が「やけど、ひび、あかぎれ」用として数種、市場に出ております。

 日本薬剤師会編の「漢方業務指針」にも紫雲膏は掲載されております。処方は華岡青洲家方として、シコン120g、トウキ60g、ゴマ油1000g、ミツロウ340g、豚脂20gとなっています。効能は上述のほかあせも、ただれ、外傷、火傷、痔などがあげられています。華岡清洲は、この紫雲膏が肌を潤し、肉を平らかにし、傷痕の色変じたものを治すと述べております。「漢方業務指針」では「よく肌を潤し、肉を平らかにするというもので漢方外用剤では最も重要なものとされている」と評されております。

2.日本古代の染色

 合成の染料が明治以降出回り、繊維、織物の染色の様相はがらりと変わりました。それまでは、古代より幕末まで染色材料は天産物の利用でした。ちょうど医薬品の場合と同じで、植物が主流ですが、染色に微妙な色合いを出すために大変な苦労をしております。

 古代より染色に用いられた植物は、紫根のほかに、蘇芳、櫨、紅花、茜、クチナシ、ツルバミ、キハダ、刈安、杉、ヒノキ、栗、ヤマモモ、藍、ザクロ、梅、桑他などがありました。現代に伝えられている江戸時代の華麗な衣装がこれらの植物で染めがなされたのかと思うと、高い技術に驚きます。

 これらの染料を使うときには、媒染剤として、ワラ灰、椿灰、あかざの灰・・を必要として、特定の色を出す場合には、灰の材料も指定されました。

 紫色の染色には薬の場合と同様にムラサキの根が使われました。採取したのち根を乾燥させてから使います。江戸時代の薬種問屋では、色素の少なくみえるものや、黒ずんでいるものは医薬用に、美しいものは染色用に分けていたといいます。

3.植物としての紫(ムラサキ)

 ムラサキはムラサキ科でLithospermum  erythrorhizon Sieb.etZuce  といい、わが国ではこの植物を「ムラサキ」と名づけています。

 地上部を見ただけでは紫色は出ていないのでわかりませんが、根を掘り起こすと根が明らかな紫色を呈しています。乾燥した根を保管していると、まわりまで紫色に染まるほど色素は強力です。

 日本では北海道から九州まで山地・草原にはえておりました。世界ではアジアに限られ、朝鮮半島、中国、アムール地区などです。多年草です。しかし、今日のわが国では多分、野生のムラサキは絶滅したのではないかといわれております。

 薬用成分というか染料にも使うのは根で、地上部はまったく使いません。

 ムラサキの主成分は紫色色素ナフトキノン類(シコニン)で、含有成分には抗炎症、抗真菌、抗腫瘍、肉芽形成促進作用などがあり、医療で紫根を使うのは解熱、解毒、外用でやけど、凍傷、湿疹などで、時には麻疹、便秘、黄疸に内服します。

<参考書>

前田雨城:色―染と色彩、法政大学出版会、東京(1980)
藤平健他監修:実用漢方処方集、薬業時報社、東京(1990)
日本薬剤師会編:漢方業務指針、薬業時報社、東京(1993)