クスノキと樟脳

 樟脳には独特の香りがあります。樟脳はクスノキを水蒸気蒸留して得た油状の物から取り出した結晶で、カンフル・カンファーともいいます。クスノキの葉を揉むだけでも芳香が漂います、それが樟脳の香りです。爽やかな香りですが、しかし、この香りを放つ樟脳は、昆虫にとっては怖い香りであって、虫によってはこれに近づくことはできません。樟脳は虫除け樟脳といわれるほどに、古来、家庭の大事な衣服、書画の虫食い防止に使われています。とはいうものの、街路に生えているクスノキの樹木には虫に食われて孔が開いている葉もありますので、虫といえどもさまざまであると、虫の世の中も広いと、感じさせます。

 わが国におけるクスノキの歴史は古く、樹木の中でも、古い記録に残されている記事の量では上位にあり、日本書紀や古事記などにも、クスノキは登場します。松、杉、イチョウ、ケヤキなどは、都会の身近にある樹木ですが、これらも古いという点ではクスノキと並ぶでしょう。しかし、クスノキは巨木になり、単独で神社・仏閣などの目立ちやすい所にあり、何かと話題になりやすいからか、古木の伝説・記事がたくさん残っています。

 クスノキの漢字には、わが国では「楠」と「樟」とがあり、これらを区別することなく、同じものを意味して、両者は適宜使われています。しかし、中国では、この漢字は別物になっているようです。「楠」は中国ではユズリハという木を意味しており、「樟」は通常はクスノキですが、タブノキを意味する時もあるようです。文字の由来では、「楠」は南国から渡来したと木という意味です。「樟」は材木にした時、木目が美しい模様になっていますので、その意味で、美しい模様を意味する章(あや)という字からきています。クスノキの漢字は、まさに、クスノキを的確に説明しておりますので、二つの文字が同じ扱いになって使われております。幸田露伴はやや見解を異にし、「く」は香りの意味にて、

 樟をクスノキというのは香りの強い木という意味であると説明しています。また、樟脳、竜脳の脳は植物の香りの激しいものに使うと言っております。

 わが国では「楠」という字は、樹木のほかに、人名としても使われており、楠木正成の楠一族は大阪河内の土豪で、南北朝時代に関西で活躍しております。「樟」の方は人名では、あまり出てきません。

 クスノキの主要成分カンフル又はカンファーは、無色透明の結晶で、この結晶はクスノキから取り出して精製したもので、これを天然樟脳といっており、そのメーカーは、近年、出回っている化学合成により製造した合成樟脳とは区別しているようです。天然品は国産ですが、合成品は大部分が中国から来ています。

 一昔前、プラスチックスの出現する前はセルロイドが日用品の材料として汎用されました。セルロイドは加工しやすく、扱いやすいので、写真のフイルムや家庭用品、文具などに広く使われましたが、燃えやすいのが欠点でした。このセルロイドの主原料は樟脳です。

1.クスノキという木

 クスノキは、本州の関東以西、九州に多く、韓国の済州島、中国、台湾の南部に生えている常緑の高木です。5月、6月の新緑の頃には、山野の緑を一手に引き受けている感じのする、元気な木です。 

 木の寿命も長いのがあって、何百年、何千年というクスノキの巨木が、日本のあちこちに残っています。クスノキは樹木が集まって森を形成すると言うよりも、単独で生えている場合が多く、そのせいか、樹木は目立ちます。

 樹高は20mになることもあり、幹の太さも2mを超える場合があります。これぐらいの巨木になると、さすがに樹木として真直ぐにはなりにくく、何かにもたれかかったような形になる樹木もあります。例えば、大阪府の巨樹ナンバー2のクスノキ「薫蓋樟」は門真市の神社にありますが、幹の下部は横たわり巨大な岩の塊のようになっています。大阪の巨樹1位はケヤキですが、上位30位の中には、20本のクスノキが入っております。全国の巨樹ランキングでは、上位50本のうち、33本はクスノキで、そのうち半分以上が九州にあります。

 日本一の巨樹は鹿児島県蒲生町の蒲生八幡神社にある蒲生のクスノキで、幹の周りは24.2m、根周りは33.5mです。この木は元気よく茂っており、遠くから見れば山なすごとくです。高さは30mで、割りに姿勢よく上に伸びております。樹齢は約1500年といいますので、弥生時代がようやく終わった頃に生まれました。この頃、まだ日本の国は生まれていません。

2.クスノキと薬

 クスノキという植物そのものを漢方の原料として使うことは非常に少なく、薬との係わりでは結晶の樟脳を化学合成の原料として使うことにあります。そういう意味ではクスノキの爽快な香りは薬らしくなく、どうしても防虫剤のイメージから離れられません。それほどに樟脳の防虫・防腐剤の存在価値が大きいのでしょう。

 植物の香りには薬らしい香りというものがあります。近く、本欄で取り上げる予定のセンキュウ、あるいはトウキという薬草には、いかにも薬らしい香りがあるのですが、クスノキの香りはこれとは大きく異なります。

 樟脳を薬として使う場合は、カンフルと呼ばれることが多いので、この章では樟脳ではなく、カンフルを使います。防虫剤の時は樟脳です。

 薬用植物として、クスノキは薬学の本に出てきます。クスノキ利用の説明を読むと、薬用として使うのは、結晶のカンフルを注射剤にて強心作用で使う場合、もう一つは、皮膚科の領域で使う外用剤で、カンフルを軟膏にして神経痛やしもやけ、打撲傷などに塗り薬で用いる場合です。植物のクスノキの葉や実、あるいは材木を煎じたり粉末にして内服するというのは出ていません。

 カンフルには薬として中枢の興奮作用があり、中国、欧州では古くから用いられてきました。薬としては注射剤で重症の心不全、心衰弱患者の治療に多用されました。そのために、カンフルには、比ゆ的に普通の手段ではどうにもならなくなった物事を回復させる非常手段という意味があり、「カンフル注射を打て」という文句が、薬から離れて、かつては、日常の会話に、マスコミにもよく使われていました。

3.防虫剤としての樟脳

 家庭であるいは事務所などで、衣服や文書が虫に食われるということはよくありました。建物の構造、材料の進歩でこういう虫の建物内への侵入は、最近は減りました。包装材料もプラスチックスのいいフイルムが出来てきて、衣服の虫害は減りました。一方では、殺虫剤の成分も変わり、その散布の道具、技術も向上してきましたので効果は上がっています。しかし、虫もどんどん進化しており、防虫剤の出番は一向に減りません。

 その中でも、樟脳は防虫剤として長い歴史があり、江戸時代から、連綿とその役目を果たしてきております。

 樟脳の防虫効果が優れているのは、一つには、樟脳の化学的性質の良さにかかわります。樟脳には適度に揮散して、限られた空間の中で、ガスが漂うという性質があります。防虫剤には、化学製品ではナフタリン、パラジクロールベンゼン、最近ではピレスロイドなどがありますが、衣服防虫剤の大事な性質では、侵入してきた虫を殺してしまうような強い殺虫効果は期待されていません。効果は強烈ではなく、虫が保存品に近づかないようにすること、いわゆる忌避効果が重く見られます。強力な殺虫効果があると大事な保存品に、虫の死骸が残り、汚れ発生の原因にもなります。大事な保管品を守るためには、死骸の発生を厳に避けなければなりません。

 樟脳が高価な衣服の保存に適していることはここにあります。また、衣服に残る香りも馥郁たるものであることが重要です。樟脳は、この意味では最適です。最近では無臭の防虫剤というのが出てきておりますが、無臭というのは、効いているのか、うまくガスが拡散しているのか、などが把握しにくく、この面では欠点にもなります。 かつては、満員の通勤電車で、ほんのり樟脳の香りが漂うのは奥ゆかしいことでしたが、今は、どうも無臭化に移行しているようで、満員の電車も味気なくなりました。

4.クスノキ風呂のよさと効き目

 農家では、クスノキの葉を入浴剤として使うことは、古くからありました。

 クスノキの葉を浴槽に浮かばせて入いるのです。民間の風呂の薬湯には、桃の葉やヨモギが古くから使われてきました。ここに、クスノキを並べても不自然ではありませんが、いくらか異質なのか、桃の葉ほどは普及していません。浴槽にはヒノキが古くから用いられ、ヒノキの香りは風呂には最高の贅沢と言われています。クスノキは、木材にいい香りあるものの、浴槽の材料には使いません。 

 今や新緑の季節というか、燃えるかのごとくクスノキは茂っていますので、若い芽を切ってきて葉を浴槽に浮かばせ、香りを楽しむクスノキ湯はお奨めです。

 生薬入浴剤の「延寿湯温泉」には、樟脳油が配合されております。これは、クスノキから搾り出した油分で、結晶の樟脳を取り出した後のものです。樟脳油は「延寿湯温泉」の爽やかな香りの源泉の一つになっております。

<参考文献>

・難波恒雄:原色和漢薬図鑑、保育社(1980年)
・牧野和漢薬草大図鑑、㈱北隆館(2002年)
・伊藤美千穂 他監修:改訂第2版 生薬単,㈱エヌ・テイー・エヌ(2012年)
・幸田露伴:露伴随筆集(下)、岩波文庫(1993年)
・早川美穂:お風呂大好き、生活情報センター(2003年)