風呂の始まり

銭湯といえば江戸時代に大繁盛し、町人憩いの場としても賑わいました。つい先ごろまで、といっても住宅、燃料事情のよくなかった昭和30年ごろまでは、庶民の湯、銭湯は町のあちこちで見受けられました。しかし、住宅事情のすっかり変わった最近では、銭湯から家庭の風呂・シャワーへと移り、町の銭湯は激減しました。それどころか、風呂場は身体を休める最適の場所というので、家庭風呂はますます広くなり,ゆったりで、いろいろの機能も加わり、変貌しつつあります。入浴剤 延寿湯温泉もここで一役買っております。

 

1.「風呂」と「湯」の区別

 わが国の場合ですが、風呂の始まりをお話しする前に、「風呂」と「湯」の区別をはっきりしておかねばなりません。簡単にいえば、「風呂」というのは蒸気による蒸し風呂をいい、「湯」というのが今日の家庭の風呂です。(この仕分けによる蒸し風呂は「風呂」とかっこつきで表記することにします)

 冒頭に、この区別にこだわるのは、そもそも風呂のはじまりが、蒸気による蒸し風呂でスタートしたからです。もっとも、人類の歴史をたどれば、人が裸になって湯、水に飛び込んで、浸って身体を洗い、身体の疲れを癒したのは自然の温泉あるいは、川や池、海などですから、本来の始まりは「湯」でしょう。

 歴史にあがってくる「風呂」というのは、あくまでも、人が身体を清めるという目的をもって作り上げた建造物です。建造物というのは重々しいのですが、それはお寺の修行の場として生まれたからです。

2.お寺の風呂

 風呂の跡といえば、京都、奈良市内にはいくつか残っており、今なお、使われている所もあります。もちろん、奈良時代のものが、そのままではありませんが、当時は偲ばれます。法隆寺、大安寺、東大寺などにも残っております。法華寺の浴堂は光明皇后の言い伝えで名高い風呂です。お寺の「風呂」すなわち浴堂は僧侶の保健衛生、身を清めるために欠かせない施設でした。東大寺の大湯屋というのは今日も残っておりますが、これは僧侶というよりも、参詣する人のためであったといいます。

 これらの風呂の構造ですが、法隆寺の場合、釜の大きさから推定して、専門家は「湯」であり、釜で湯を沸かして、その湯を取って冷水で埋めながら入ったのではないかといいます。一部に「風呂」もあったようです。東大寺の場合は蒸し風呂であったのではないかと推定されております。

 お寺の浴堂には仏像を安置して、お参りし、仏像は常に洗うということになっておりました。この習慣は4月8日のお釈迦さんの潅仏会(花祭り)につながります。お釈迦さんの像に、香水(こうずい)をかけて釈迦の誕生を祝います。

 この香水はもともとは種種の香木から煮出して作りました。以前に本通信で取り上げましたが、いわゆる薬湯の起原につながるのです。現在はこの花祭りの香水は、アマチャ、もしくはアマチャヅルを煮出してつくります。最近はアマチャが多いようで、時期が来ると生薬市場ではアマチャが引っ張りだこで、近年は品不足で値上がり気味です。

3.お寺の入浴作法

 入浴は厳粛な修行でしたから、入浴作法には厳しい取決めがありました。まず、入浴には順番が決められていました。ほら貝の合図で、定められた順番に修行の場である浴堂に入ります。比叡山の延暦寺にも順番は定められており、1203年には入浴の順番をめぐって大きな争いが起きたといいます。一般の人は僧侶とは別で、通常は入浴出来ませんでした。寺で入浴するとき、真っ裸は厳禁で、かならず「湯かたびら」を着て入りました。

 何かを身につけて入浴する事は、平安時代の宮中でも同じで、高貴なかたがたは、裸で入ることはありませんでした。

4.京都の湯屋

 わざわざ湯をわかして、風呂にはいるという暮らしは室町時代以前はお寺と宮中ぐらいで、庶民には縁遠いことでした。寺院の大湯屋、先に東大寺を例にあげましたが、これが

 銭湯の始まりで、身体を洗うというよりも身を清めるという目的でした。町に湯屋ができたのは京都で、平安時代の終わりごろから室町時代にかけてというのが一つの説です。お寺や貴族の風呂をモデルとして、次第に町の中に湯屋が出来始めました。当時の風呂のありさまについては詳しい記録は残っておりません。冒頭に上げましたように、都が江戸に移り、そこで湯屋が開花します。銭湯という言葉が湯屋に替わって使われるようになるのは16世紀の終わり、江戸で入浴料を湯銭として、徴収するようになってからです。

5.江戸時代の入浴風景

 銭湯が町民のモノとなって繁盛すると、入浴というテーマは川柳や浮世絵に沢山残されております。もちろん、これは江戸や大坂、名古屋、京都など、当時の都市に限られての光景です。江戸時代の川柳には、おびただしい数の銭湯風景が読まれており、また以前に紹介したように、「浮世風呂」という小説まであるくらいですから、町民の暮らしと銭湯との結びつきは大きかったモノと想像されます。

 江戸時代の銭湯の温度はかなり高く、43度以上はあったようです。明治になって政府は湯温を下げるようにと指導したとありますので、相当温度は高かったのでしょう。最近は家庭の風呂は38度、39度と40度以下の湯温が増えてきているようですから、43度超えるとなると、今の家庭の風呂に馴れて入っている人ではとても入れないでしょう。

 浴槽につかると気分がよくなって歌が出るのは、これは今も同じで、小唄、義太夫、端唄、謡曲・・と騒がしかったようです。銭湯は裸で入ります。男湯も女湯も人が集まれば喧嘩はつき物で、浮世絵にも華々しい銭湯女湯の喧嘩風景が残っております。

 江戸時代の薬湯は、生薬を使うのですが、銭湯の得意とするところで、とくに高い料金を設定できました。客も保健、治療目的で生薬風呂を好み、人気があったようです。

<参考文献>

武田勝蔵:風呂と湯の話し、塙新書(1967)