古代の医書に出てくる薬湯

 元日のおめでたいときに入る薬湯が五木湯です。これは「延寿撮要」という、江戸時代の養生書(今でいえば家庭医学書。意齋道啓著1599年刊行)に出てきます。元日の朝、五木湯に入ると、髪の毛は黒々となり、病気は吹っ飛んでしまうそうです。五木とは桃、柳、桑、槐(えんじゅ)、楮(こうぞ)をいいます。しかし、五木というのは、必ずしもこの5種ではなく、書物によっては梅、桃、柳、桑、杉を言う場合もあるようです。    

 中国では、紀元前から2世紀にかけて、医書に薬湯の記事が出てきますが、わが国の書物には出てきません。薬湯の古い記録のないということは、薬湯というものが、もともとなかったのではないか、ということがいえます。一つには日本各地にふんだんにあった温泉を治療に利用できたことであり、中国との相違点になります。わざわざ薬湯を作らなくても自然を利用できたためではないか、ということです。

 わが国では、薬湯の歴史となると、文献・資料に出てくるのは、中国にくらべると、大分あとで室町時代以降になってしまいます。もちろん、菖蒲湯とか柚子湯などは民間の伝承というか、言い伝えではもっと以前にさかのぼることが出来るでしょうが、文献には残っていないので、明確に時点を確かめるかことが出来ません。

1.中国古典医書にみる薬湯

 1973年長沙(ちょうさ、中国湖南省)馬王堆から出土した臨床医学書「五十二病方」は BC4世紀~BC2世紀ごろの著作かと言われています。この中に薬湯のことが出てきます。

 この本では治療法として、薬剤の服用、洗浄、入浴、薫蒸、罨法、灸法、簡単な外科手術などが出てきます。

 本書に出てくる湯熨(とうい)という薬物療法は外から身体を温める療法です。薬湯による治療例をあげると、疥癬には桃の葉を煮た湯に入るとかゆみが取れ、皮膚の病気なら入浴や湯熨法で治せるとあります。

 「黄帝内経」といえば中国古代医学の原点になるのですが、成立時点は春秋時代ですので、「五十二病方」と同様、BC4世紀~BC2世紀ごろになります。この「黄帝内経」に出てくる中国古代の医療では、薬剤の基本剤形 として湯液・湯剤が出てきます。湯液・湯剤と言うのは、もともとは「薬物に水を加えて煎じ、かすを取り除き、汁を取って内服する。湯液は吸収が比較的はやく、作用を発揮しやすく、新病や急病に常用する」と言う剤形 です。ところが、書物によっては、必ずしも内服とは限らず、煎じ液を傷にかけたり、浴びる場合が出てきます。「黄帝内経」には薬物を湯に入れ、これにつかる、もしくは患部をシップする、という用法が出てきます。ただし、生薬の何を浴剤に使うかと言う記述はありません。

 もう一つの中国古代医療の基礎的な古典は「傷寒論」ですが、この医書は西紀200年ごろに張仲景によって編纂されました。張仲景の著述そのものは残っておりませんが、現在いろいろの「傷寒論」伝本が伝わっております。たとえば康平傷寒論、宋板傷寒論というのが、今日用いられております。浴剤療法について康平傷寒論で探索したのですが、本書では内服剤が中心で入浴による薬物療法は出てきません。

2.中国の本草書における浴剤の薬草

 一方、「黄帝内経」のころに成立したといわれている本草書には、おそらく浴剤として使うのであろうと思われる薬草の利用方法が出てきます。

 現在伝わっている中国の本草書では、「神農本草経」が一番古いのですが、この神農本草経には、「浴湯を作ることができる」というのが出てきます。

 その薬草は、ヤクモソウ、キツネノマゴ、レイジンソウ、ウツギなどです。これらの植物のうち、現代も浴剤として推奨されているのは、キツネノマゴです。神農本草経は漢の時代に編纂されたと言われていますので、2000年前ということになります。

 中国の本草書は、「神農本草経」のあと、幾多の類書が出てきます。そして、近世の最高の本草書である李時珍「本草綱目」(1578年)にいたります。その直前に編纂された「本草品彙精要」(1505年)は一般への公開が遅かったので、当時の医療ではあまり利用されなかったのですが、優れた内容には今日、定評があります。

 これら近世の本草書について、生薬の浴剤への利用を調べたのですが、浴剤に使われる生薬の記述は意外と少なく、脚気の治療にインチンコウの浴湯を薦めているのがあったのみで、他には明らかに浴剤として出てくるのは見つかりませんでした。生薬でシップしたり、洗浄したりする例は出てきます。

3.わが国の医書における薬湯

 伝承による薬湯は別として、文献に出てくる薬湯を探して見ました。

 奈良時代に中国から仏教が到来し、日本における薬湯のきっかけは、この仏教の伝来に係わっております。もともと古代の医学そのものが宗教と深いつながりがありましたし、さらに入浴の起原が宗教行事の一つでしたので、これは奇異ではないでしょう。

 奈良時代の入浴による皮膚病の治療では法華寺の光明皇后の伝説が余りにも有名です。すでに本通信でも、これは取り上げました。奈良時代以降の中国高僧の来訪によって、おびただしい仏教書、経の来たこと、7世紀から平安の時代にかけての遣隋使や遣唐使の往来などが、中国の文化、文物を運んできており、中国医学書・薬物も一緒になってわが国に来ております。わが国の医療における薬湯の始まりを奈良時代に求めるのはこれらの経・仏教書に基づきます。すでに、仏教と薬湯については、本欄で取り上げましたので、今回は医書を中心に調査しました。

 その結果、見つかったのが「有林福田方」(ゆうりんふくでんほう)の記述です。本書は室町時代前半期1360年ごろ僧有隣の著作によるといわれております。この書は僧有隣の執筆したオリジナルというよりも、有隣が沢山の中国・日本の医書から、エッセンスを取り出して編纂した書物であると見たほうがいいでしょう。当時の医書・本草書はこの編纂による方法が主流です。「有林福田方」は、わが国では貴重な医書の一つです。

 この書物に「五木湯」が脚気の治療に浴剤として出てきます。五木としては桃の枝、柳の枝、槐の枝、桑の枝、穀(楮のこと)の枝が並んでおります。とくに木の枝と指定されているところに特徴があります。薬湯の作り方としては、葉のついた枝を水から煮つめてその煎じ液につかるのが一方法であり、当時はこのほかにそのまま浴槽に枝を入れて入浴する方法もあると書いております。

 江戸時代のわが国の本草書、貝原益軒の「大和本草」(1709年刊行)では桃、桑、柳などは煎じ液にて手足を洗うことは述べておりますが、入浴までは言及しておりません。

 江戸時代の養生書「延寿撮要」について先に「五木湯」のことを述べましたが、もう一つ大事なのは本書ではクコによる入浴を勧めていることです。しかも、クコ湯に入る月日を指定しております。これはどういう意味なのか、深く調べてはいませんが、たぶんに呪術的なものがあるのではと思います。

 クコといえば、現在も葉から、実、根まで全部薬になるので、幅広く使われております。この江戸時代のクコ湯には一体、どの部分を用いたのか、おそらく葉であろうと推測されますが、明らかではありません。

 「延寿撮要」という江戸時代の書物は入浴方法にも詳しく、すぐれた健康読本です。 現代の優れた薬用入浴剤 延寿湯温泉や延寿石鹸の「延寿」はここから来たのでしょうか?

<参考文献>

山田慶児著:夜鳴く鳥 医学・呪術・伝説、岩波書店、1990年
傳維康他著、川井正久他訳:新中国医学の歴史、東洋学術出版社、1997年
神農本草経輯注、人民衛生出版社(北京)、1995年
山田慶児著:中国医学の起源、岩波書店、1999年
大塚敬節:傷寒論解説、創元社、1966年
正宗敦夫編:有林福田方、日本古典全集刊行会、1936年
延寿撮要は続群書類従、巻第902、群書類従刊行会(1924年)による