温泉は本来は治療のためでした

 湯治(とうじ)という言葉がありますが、最近はいささか古臭いイメージがあるせいか、やや、見かける機会がやや少ないようですが、しかし逆に、ひところの歓楽的な温泉から離れて、ゆっくり療養をという方も増えつつあります。湯治とは温泉に入って療養することをいいますが、これが、温泉の本来の役割というか、発端でした。

 湯治は、1日、2日行くのではなく、1週間、あるいは1ヶ月と滞在するのが普通であります。一晩、温泉につかって、飲んだり食ったりするのと、湯治とはまったく違います。

1.湯治の歴史

 温泉の歴史は冒頭にあげましたように湯治の始まりです。伝説にあるように、動物や鳥が湯につかり、怪我や病気を治したという話はよくあることです。たとえば、岐阜県の下呂温泉は白鷺の話が有名です。

 すでに、本誌では風土記と温泉の話を取り上げましたが、古来、温泉につかる話はたくさん残っており、それを治療に結びつける例は多々あります。しかし、ここでお話しする湯治は、はっきり医療目的ですから、ただ湯に入っただけではなく、どのようにして、どこの温泉に、何のために入ったか、ということが明らかでないといけません。

 そういう、定められたルールに基づく温泉治療が始まったのは、まだつい最近のこと、江戸時代後半ぐらいとみなすほうがいいでしょう。

 厳密にいえば、医師が入浴には関与していることです。そういう意味では、明治2年(1869年)、ドイツから教師として日本に来ていたかの有名な医師ベルツ博士による草津温泉の発見、利用が本格的湯治の最初といいうることもできます。また、温泉の近くには、温泉療法を標榜した医院、あるいは研究する病院があります。

 湯治の温泉には宗教と結びつく場合があります。温泉寺、あるいは温泉神社というものが、温泉地にあります。これは宗教の原点が民衆の苦しみからの解放にあり、その手段の一つとして温泉が選ばれたということになります。これらの温泉の社寺は湯治ばかりが目的であるとは必ずしもいえません。

 たとえば、和歌山県本宮町の熊野詣に良く出てくる湯の峯温泉は1800年の歴史があり世界遺産にも登録されていますが、伝説には、小栗判官が足腰も立たないほどの、重い皮膚病で、ここにたどりつき、完治させたという話があり、歌舞伎の舞台になっております。この温泉は温泉の寺(東光寺)がもともと泉源で湯峰薬師さんが祀られ、湯治客は祈願に集まってきます。

2.湯治の温泉場選び

 夏目漱石の小説「草枕」では、主人公の「余」が一人で絵画の材料をもって、九州熊本の鄙びた温泉「小天温泉」で長期にわたり湯治する光景でてきますが、費用と時間が許されれば、こういうのんびりした湯治旅行もいいでしょう。

 湯治の温泉にはどういうところがあるでしょうか。まず、ベルツ博士の草津の湯が真っ先にあげられますが、全国何千という温泉場から、特定の温泉を選んでここに並べることは難しいので、詳細は専門書に譲ります。あるいはインターネットをご利用ください。

 湯治の目的で温泉を選ぶ場合には、何よりも、ご自分のほうであらかじめ、決めておかないといけない事柄があります。たとえば、次の事がらです。

①何を治療するために温泉にゆくのか

②滞在は2週間とも3週間ともいわれております。どれだけの期間を湯治に当てることができるか

③受け入れ態勢のある宿と予算

④長期滞在中の食事をどうするか、昔は自炊が普通でした

 湯治場を選ぶには、その温泉が医療効果の期待できる「療養泉」になっていることが第一ですが、「温泉法」による規定もあってわかりにくいところがあります。「療養泉」であれば、温泉の成分が一定基準以上にあり、それによって分類されて、効能も決められています。「温泉法」による表示でも温泉の効能は出ております。

 次に、源泉を飲用にも利用できるところがいいといいます。最近は衛生上の問題もあって、飲用できる設備のある温泉は減ってきました。

 3番目は上述のように長期滞在の受け入れができるところです。

 このあたりを目安にして、選択されることになるかと思います。

3.湯治の入浴法

 本格的な湯治となりますと、医師にご相談されるか、指導を受けることが望ましいでしょう。といいますのは、疾患によっては、泉質と合わないため、逆効果ということがときにあるのです。さらに、高血圧症ほか循環器疾患の方には湯治には要注意という場合もあります。温度の問題、泉質の違いは皮膚には微妙な影響を与えます。

 湯治では1日に何回ぐらい入ったらいいか、これが良く問われるのですが、長期滞在といえども、最初は1日、1~2回で様子を見ながら回数を増やします。せいぜい3~4回までといわれております。湯治でせっかく来たのだからと、とにかくがんばらないこと、ほどほどにするのが大事で、特に、体力の弱っている人や高齢者は注意がいります。

 ときどきあるのが「湯あたり」です。入浴を繰り返していると、数日後に体調を崩してしまう場合があり、全身症状の出ることもあります。この場合は入浴を止めれば回復します。

4.世界の湯治

 湯治というのは、温泉国、わが国独特の治療法かといえそうですが、違います。歴史的にも欧州はじめ海外のほうがはるかに盛んです。古代ギリシヤ、ローマあるいはイギリスにしても、温泉は民俗宗教と治療とが結びついて、今日にいたっております。たとえば、イギリスのバス温泉は、温泉を発見したのが動物であるといわれております。紀元前800年のころ、悪疫を逃れてきた王子が、放牧の豚が湯につかり、皮膚病を治したのを見て、自分も入り、持病が治癒したという言い伝えが残っております。この温泉には今もなお、ローマ時代の守護神のミネルバ像が残っているといいます。

 古代ローマ人は盛んに温泉、鉱泉を治療に利用し、2世紀前半の医師アンテイロスは患者に温泉治療を奨め、発汗、強壮、鎮痛などに効果があるといっています。また、ローマ時代の医師ガレノスも同様に温泉治療に積極的でした。中世になると、ドイツで温泉療法が栄え、医学的な研究も行われました。このあと、スイス、フランスにも広がりました。

 世界の歴史的に名高い湯治場としては、ドイツのアーヘン、シュワルツバッハ、ベルギーのスパー、スペインのバンチコーサ、スイスのサンモリッツ、フランスのビシー、プロンヒエール、イギリスのバクストンなどがあります。

 欧州では温泉場には医師が現地にいて、患者の診察・指導をしていたといいますが、現在でも、ほとんどの湯治場には医師がいるようです。湯治だけでなく、成分の研究はじめ、成分と適応症状との関係など、温泉学の発達が素晴らしく、学問の世界で温泉が論じられるようになりました。

 先にも例をあげましたが、たまたまわが国に医学を教えるためにきていたヘボン博士が、草津温泉が治療の施設として江戸時代から庶民に利用されて繁盛していることに興味を抱いて、世界に紹介したのは伝統あるドイツの温泉学につながります。なお、世界で温泉の研究が最も遅れているのがアメリカといわれております。

 古代ローマは温泉の医療への利用では先端を走っていたのですが、これが次第に歓楽の場に変わってゆき、庶民の足は遠ざかり湯治は衰退してゆき、温泉そのものも賑わいを失ってゆきました。

 今日のわが国でも、湯治の将来に不安がもたれているのは、このように本来の湯治の場が遊楽目的に変質してゆくのではないか、ということです。こうなると、安い費用で、長期滞在して、のんびり治療をすることができなくなってしまいます。また、客のほうも定年後の人たちだけでなく、働き盛りの中年の人たちも長い休暇が取れるようにならないといけません。

 家庭で手軽にできる湯治には入浴剤「延寿湯温泉」がありますが、たまにはひろびろした温泉でのんびりもいいでしょう。

<参考文献>

伊東祐一:温泉に憑かれて五十五年、同文書院(1979)
飯島裕一:温泉で健康になる、岩波書店(2002)
石川理夫:温泉法則、集英社(2003)