正月の初湯はまた格別の味 ―お風呂文化の話

 正月2日に沸かして入いる風呂を初湯といって、この習慣を私たちは大事にしてきました。今日もなお、初湯にこだわっておられる方も少なくないでしょう。年の初めに最初に入る風呂のことなのですが、初湯は一種の儀式であって、新しい年の初めを迎えて、これを祝うとは、さりげないことながら、奥ゆかしい話です。日本人の生活の知恵が生んだ習俗の一つです。

 新湯(さらゆ)とか、仕舞湯(しまいゆ)という言葉があります。新湯(さらゆ)というのは、沸かしたままで、まだ誰も入っていない風呂の湯のことで、逆に仕舞湯(しまいゆ)はその日の終わりの湯のことをいいます。このように風呂の湯にも名前がついているのは暮らしの中で風呂の存在価値が大きいからであって、風呂場が単なる身体の洗浄場に過ぎないのであれば、こういう言葉は生まれてきません。

 わが国の風呂は世界にも珍しい文化を生み出しております。今回は風呂文化および入浴の文化というものを考えてみましょう。

1.思わず極楽とつぶやく

 哲学者・評論家の鶴見俊輔さんは朝日新聞の記事の中で入浴について述べておられます。

 次の文章は鶴見さんが引用している橋本峰雄さんの『風呂の思想』の1節です。

 「湯浴みの快感とは、自分の肌にじわじわと湯が染みて、肌と湯、つまり内と外とのけじめがなくなってくる、それゆえにうっとりとしてくる皮膚感覚のことである。あるいは自分が湯に包み込まれる感じといえばよいだろうか」

 この橋本説を評して鶴見さんは、肩まで湯につかったお年寄りが思わず「極楽、極楽」とつぶやくのは、母親の胎内にいたときの記憶が甦る、この宗教的体験なのだろうかと述べておられます。

 江戸時代の式亭三馬による『浮世風呂』(1809年刊)には仏嫌いのお年寄りも風呂へ入れば我知らず念仏を唱えるとあります。風呂での「極楽、極楽」というつぶやきは確かに、よく耳にするのですが、お年寄り独特の声のようです。極楽を体験するには、かなりの年功がいるのは確かですから、風呂の極楽感はお年寄りに限られるのでしょう。

2.何より大事なのが 四民平等

 裸になってしまえば、殿様も家来も姿は変わりはありません。江戸時代から銭湯でもっとも大事にされ、庶民に受けてきたのがこの四民平等の感覚です。江戸時代の『浮世風呂』には、このことが強調されて冒頭に次のような一文が出てきます。原文のまま引用します。

 「賢愚邪正貧福高貴、湯を浴びんとて裸になるは、天地自然の道理。釈迦も孔子もおさんも権助も、産まれたままの姿にて、惜しい欲しいも西の梅、さらりと無欲の形なり」

 要するに、お釈迦さんも、孔子さんも、お手伝いさんも裸になってしまえば、皆同じということです。

 現代の感覚でこれをいえば熊谷真奈さんは朝日新聞の記事の中で

 「銭湯にゆったりつかれば肌の毛穴が開く、硬い表情もゆるんできます。・・・・銭湯デモクラシー、いいかえれば裸体民主主義の力の源なのでしょう。裸のままくつろぐとニンゲン皆ちょぼちょぼという不思議な平等感覚が生まれるらしい」と述べております。

3.ホテルではトイレと風呂が同居

 ご存知のようにビジネスホテルや観光のホテルに泊まると、通常はトイレの便器と風呂の浴槽が並んでいます。ところが、日本の本来の風呂、家庭ではこういう光景に出くわすことはありません。この違いこそ日本の入浴文化のユニークさを物語っております。

 排泄と入浴とを生理的行為として同じに考えることは日本人には出来ないでしょう。

 日本の入浴は身体を洗うだけではないので、浴槽の隣に便器が並んでいたら、それこそ「極楽」「極楽」とつぶやいて、浴槽の中で鼻歌を歌うことも出来ません。

 わが国の伝統的な入浴というのは、肩までどっぷり漬かって、全身からにじみ出る心身の疲れを洗い流して、心と身体を休めることであり、ストレスを発散する場でもあるのです。清潔・衛生的という合理的な考えに基づいて、排泄と肉体の洗浄を同一次元では解釈できない理由がここにあります。

 アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは太平洋戦争の最中に日本の文化・国民性を分析して『菊と刀』という本で発表しておりますが、その中で著者は「日本人の最も好むささやかな肉体的快楽のひとつは温浴である」と書いており、日本人の入浴習慣にはアメリカ人はじめ世界の国々の人々とは違う一種の受動的な耽溺の芸術としての価値を置いていると、分析し、わが国の入浴の文化を的確に評価しております。

4.変わりつつある銭湯と変わらぬ銭湯

 入浴文化といえば、やはり今日でも銭湯の役割には大きいものがあります。

 銭湯というのは、庶民の集まるところですので、にぎやかな交流もあって、江戸時代以来、一種独特の文化を形成してきております。銭湯は昨今の住宅事情の変化もあって、一部の地域ではかなり減少してきており、原油の値上がりで入浴料も値上がりしつつあり、決して良い環境にはないのですが、東京都や大阪府はじめ各地の浴場組合では、積極的な銭湯客への呼びかけによって、客の足止めに躍起となっており、かなり効果も上がってきているようです。各地の浴場組合のホームページを見ていると、その熱心な動きが伝わっていきます。まさに銭湯文化の揺さぶりを感じます。

 最近の朝日新聞には変わりつつある銭湯の様子が続けて紹介されており、銭湯の楽しさも報じられております。銭湯にかかわるマスコミの記事、ホームページなどはこのところ大変にぎやかになってきました。銭湯王国というと、京都府や石川県が名乗り出ており、積極的なPRが展開されております。

 また、これは神奈川県の例ですが、浴場施設の構造変化だけでなく、地域の幼稚園児がマナーを学ぶ目的で、一緒に入浴する行事があったり、あるいは社会福祉のために高齢者等を招待してゆっくり入浴を楽しんでもらう催し物もあって、銭湯の新しい役割を生み出しております。

 しかし、この銭湯ブームも地方によって大きな差があるようで、参考までに、延寿湯温泉製造販売元のある東大阪市の実態をご紹介します。東大阪市のNTTの電話帳、タウンページには銭湯・浴場はどこに含まれているか調べてみました。当地の、タウンページは「病院・福祉・健康」の部類の中に、「リフレッシ」という小見出しがあって、ここにアロマテラピー、温泉浴場、健康ランド、サウナ風呂、銭湯、スーパー銭湯が並んでいました。東大阪市(人口51万人)の現況を最新の電話帳から拾って見ますと、次の通りでした。

天然温泉健康施設    1ヶ所
健康ランド兼サウナ   1ヶ所
銭湯         68ヶ所
スーパー銭湯      3ヶ所  

 銭湯は新しい文化の生まれる楽しい場所に形態が変貌しつつあるとは言いますが、当地の場合、まだまだ、旧来の銭湯が断然多いいようです。ただし、名称は銭湯でも、浴場の構造・雰囲気を変える試みは各所で行われているといいます。

5.日本の温泉文学

 銭湯に次いで入浴文化では欠かすことの出来ないのが温泉の存在です。つい最近、新潮社の新書で日本の温泉文学を紹介した『温泉文学論』(川村湊著)が出版されました。特定の温泉と文学作品とのかかわりが出ているのですが、興味津津、作品における温泉の役割がなるほどと理解できます。たとえば、志賀直哉と城崎温泉のつながりは深いものがあります。尾崎紅葉『金色夜叉』の熱海温泉もしかりです。川端康成『雪国』の越後湯沢温泉、作品の冒頭句は有名で「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は中学、高校の国語の教科書にも出てきますが、この湯沢温泉で繰り広げられる作品の内容は本来は成人向けであり、ポルノ小説に近い内容であると、『温泉文学論』では論じております。本書には温泉にかかわる楽しい文学が並んでいます。温泉にお出かけのときにでもお持ちくださいと著者はあとがきに書いております。ぜひどうぞ。

 文学作品には文豪なじみの温泉旅館が出てきます。彼らは温泉の雰囲気が作品の制作に大きな影響を与るということを認識していたのでしょう。今日もなお、温泉によっては文豪のかつての滞在をPRしているところが少なくありません。たとえば、妙高の赤倉温泉

 香嶽楼では、尾崎紅葉の文学碑が立っており、紹介のパンフレットにも大きく取り上げられております。この温泉旅館には明治から戦前にかけて与謝野鉄幹・晶子あるいは田山花袋ほか、多くの文人が訪れております。また、岡倉天心も赤倉温泉に住み着いて、終焉の地となり、天心の記念堂があります。

 ここで、かつてのと申し上げたのは、温泉の雰囲気と今日の作家風情とが果たしてつながるであろうか、これには疑問もあるからです。今日の作家の多くは温泉に泊り込んで作品を作り上げるということは、あまりしないのではないかと思います。

 温泉が生み出した日本文学というと、これは温泉そのものに独特の文化があって、それが生かされております。温泉とは特定の地域であり、湯の成分以外に、景色、環境が大きく作品に影響してきます。なるほど、湯につかれば心身の緊張もほぐれて制作意欲は湧くかもしれませんが、それであれば、わざわざ温泉にまで出かけなくて、入浴剤「延寿湯温泉」を入れた家庭の風呂で十分です。

 温泉文学というからには、温泉地が必要です。海外にも温泉は、日本ほどではないにしても点在はしております。しかし、海外ではこのような温泉文学というのをあまり耳にしませんので、温泉文学というのは日本独特のものかもしれません。温泉の入り方は通常の家庭の入浴とは異なるでしょうが、前にも取り上げたように、入浴を生理的行為として解釈している欧米では文学どころではないでしょう。

<参考文献>

神保五弥校注:浮世風呂、新日本古典文学大系、岩波書店(1989)
川村湊:温泉文学論、新潮新書、新潮社(2007)